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綱渡り
1989年4月 Sunstone誌より
オースン・スコット・カード
イスラム教社会が本一冊、少しの言葉、ちっぽけな装飾芸術に揺れ動き、血を流していた時、我々西洋人、キリスト教者、モルモン教者はうぬぼれていました。 我々には何の為か 理解しがたいまま、パキスタンでは暴動で人々が死んでいきました。なぜなら、我々の大使館の書店で悪魔の詩というフィクション小説を売っていると思ったからです。そしてその後、アヤトラ(イスラム教高僧の階級名)コーメイニが作者の死刑を宣告し、賞金を保証して、イスラム教者達に、私掠船としてそれを実行する様に奨めました。
何と非道な、あきれたやり方でしょう、文明化した我々西洋人なら、決してそんな事はしないでしょう。
シオンの中の恐れと嫌悪
それから少しして、母から、ユタ州民主主義者であり、ヒュー・B・ブラウンの孫でもあるエド・ファーメッジが末日聖徒イエスキリスト教会幹部に黒人4人、そのうち3人は女性、が入るのを見る事が彼の願いであると断言し、人々をあきれさせた事を載せたユタの新聞記事の切り抜きが送られて来ました。あたかも少なくとも我々モルモンは完全には文明化されていないとでも証明するかの様に、沢山のモルモン教者が、匿名でファーメッジ氏に間接的、そしてかなり直接的な殺しの脅迫電話をかけたのです。「消す事も出来るんだぞ」と彼らは言ったのです。
明らかに、聖徒の中にもアヤトラに従う人たちがいたのです。
これらの出来事は、二人のスピーカーが教会内での批判的発言についての説教をした総大会と平行して起こりました。グレン・ペースビショップは教会内から起こる教会についての批判が最も危険なものであるという事について話されました。その直後に、今度はダリン・オークス長老が数々の非公式の「もう一つの声」に参加する事については、砕身の注意を払う様にと警告されました。
そして、友人がユージーン・イングランドの、教職者にDialogueと、まさにこの本誌に記事を載せる事を慎む様にというBYUの方針に対する抗議の切り抜きを送ってきました。
この偶然は、教会の中で、いつまでもかぶさりあう職階級と知識階級という二つのグループは、教会を二つのライバルグループに決裂する過程をたどっている事を浮き彫りにしている様に思えました。そもそもこの分離自体が、教会が本来運営されるべき姿から大きくかけ離れたもので、実際のところ、オークス長老のお話は、本当なら、砕身の注意のこもった、心からの、亀裂を広げまいとする試みとして受け取られるべきものでした。
私には、ちょうどあなた方の様に本誌を読んでいる友達の反応を想像する事が出来ます。主流でないLDS誌を守ろうとするユージーン・イングランドへの賞賛、ゆっくり燃える炎の様な、教会員による教会への非難に対するペース長老の警告、オークス長老のお話に一貫する特別な注意、そして、モルモン村のまぬけどもの非難によってもたらされたエド・ファーメッジの孤立。
その全ての中で、LDS知識人達は教会の職階級は手を伸ばし過ぎ、もしくは、もっとひどく、公正な表現の自由をも押さえ、独裁していると感じているのでしょう。言い換えると、教会の職階級が、独自に教会内の非公式な声を封じようとしていると、感じているのでしょう。
しかし、これには別の見方もあります。それももっと正当な見方が。我々の中で、職階級の方針や態度により傷つけられたり、押さえつけられたと感じている方々は、指をさすべき方向は、両方にあるという事を忘れてはなりません。
おそらく、我々が今置かれている状況を理解するのに、最も簡単で分かりやすい方法は、イスラム教社会で、文化的にそして宗教的に何が起こったかを見る事だと思います。
良い人と悪い人
自分の書いた本悪魔の詩により、アヤトラ・コーメイニによる彼に対る死刑宣告まで導かれた小説家サルマーン・ルシューディとの結束をはっきりとさせたアメリカ小説家同盟の皆がそうであった様に、私も一連の出来事を、満足感と恥ずかしさのいり混じった気持ちで見守っていました。
満足した気持ちになったのは、いつでも言葉が暴力で応答される時、私は恐怖を感じるからです。言葉で生きる我々は、剣の力を持つ人々に攻撃されやすいものです。
しかしながら、恥ずかしいと思ったのは、ルシューディの出版の自由を守る過程において、殆どの人は、 ルシューディは守るに値する程のチャンピョンではないという事をすっかり忘れてしまっていたという事実です。ルシューディの出版の自由を守る事は、ラリー・フリントがポルノ本を出版する自由を守るのと同じくらい、善良な人々にとっては喜ばしくない事なのです。
コーメイニがひどい行動をとったからと言って、ルシューディが良い人になるわけではありません。それはきわめて正反対です。 ルシューディはあくまでも、この話の中では悪い人で、アヤトラの反応があまりにも不適切であったから防御したまでで、 ルシューディのした事は、良いどころか、決して無害ではありませんでした。
信仰への攻撃
悪魔の詩は、誠に卑劣な本で、きちんと責任のある行動をしたいと思っている人には書けないような本です。その本は明らかにイスラム教読者に向けて書いてあります。イスラム教信者でない人が、興味本位意外の理由でこの本を読む事は考えられません。しかし、イスラム教の背教者である ルシューディは、これによってイスラム教の聴衆が憤慨するであろう事も承知していました。彼は彼自身の社会の人々に対する、計算し尽くされた攻撃として、その本を書きました。文学界の行った、悪魔の詩に対する膝が震える程の防衛において最も危険な点は、この本はフィクションなんだから、そんなにむきになる事自体馬鹿げているという、極めて広まった推測でした。「悪魔の詩を読みもしないうちからそんなにさわぎたてるなんて!」というのが、特に矛盾したいらだちでした。これは、「飲酒運転の車にはねられた事もないくせに、飲酒運転について、そんなに怒りを持つなんて!」というのと同じくらいおかしな話です。
物語を語るという事は密室で行われるものではありません。それは人間の大切な需要を満たします。ですから語り伝えのない人間社会の存在はなく、物語りを語るという形をとることのない人間同士の貴重な接触はあり得ないのです。一日として、色々な種類の物語りのない日はありません。そして、その中でも、フィクションは一番力強いものです。「実話」(歴史、科学、ニュース、うわさ話)とは違い、フィクションは新しい真実の発見から直ちに校正されなくてはいけないというものではありません。フィクション作者は、物語の世界の中で、因果関係、なぜ物事が起こるのかという、人間の思考の最も基礎的な部分において主導権があります。
フィクションの中で何が起こるかは、世界はどのようにまわるか、人間であるという事はどういう事か、そして、社会として、あるいは個人として、我々は何者なのかといった、自分たちのアイデンティティーの最も深い部分と反響、あるいは衝突します。フィクションを読む時、我々はある程度、現実とは何かを再認証、あるいは、再評価し、宗教改革という物語り以外にそれを上回るものはありません。揺るがない啓示の思想域にフィクションが入る時、その時こそが信仰の最も試される瞬間、もしくは信仰が固められる瞬間となります。
イスラム教徒の存在は、モハメッドの神聖さと、神から彼に与えられた予言の重要さにかかっています。彼らの持っている世界はどのように廻るかという理解はこれにかかっています。ルシューディがモハメッドをあざけ笑い、彼を俗悪に、低く描いた時、彼らの社会的、また個人的なアイデンティティーに挑戦したのです。彼らの存在自体を真ん中から真っ二つに引き裂いたのです。
悪魔の詩は「純粋な」芸術的表現ではありません。(もっとも、そのようなものは存在しないのですが)それは、アンチイスラム教文学であり、意図的にイスラム教信仰の中心をえぐった、元身内によって書かれた物語なのです。
アンチモルモン文学
私は初めて筋金入りのアンチモルモン文学にであった時の事をよく覚えています。私はその時、ブラジルで宣教師をしており、教会員の一人が、友達にもらったパンフレットを持って来たのです。(これまで誰一人として、宗教について彼に話した事はないのに、モルモン教会に行っていると聞いたとたん、モルモンについてあらゆる「情報」を持って来るというおなじみのパターンです。)
そのパンフレットを読んだ時、あれほどまでに、信仰が試されていると感じた事はありませんでした。私はそれまで、一度も疑いを持つ様に誘惑された事がありませんでした。その内容は、今までに何度も聞いた事のある、ばからしいものばかりでした。しかし、私は、これを読んでそれを真実なのだろうと思っている人々がいる事を想像しながら、自分がものすごい憤りを覚えているのに気がつきました。外に出て行って、その冊子全てを回収し、一つ一つの嘘に、詳しく独自の論破を付け加えたい気持ちでした。
しかしそれは不可能な事でした。そして、そのようなモルモニズムに対する間違ったイメージを作り上げられている事に、どうしようもない、無力な怒りが満ちてくるのに気がつきました。彼らは沢山の人々に、モルモンという名前が何を意味するかを定義していました。彼らは社会の中で私のアイデンティティーを構成する最も力強いものを定義していました。つまり、彼らは私を定義していたのです。このパンフレットを読んだ教会員と非教会員の心に持ち上がった質問を注意深く忍耐強く答えた後も、私は何日も漠然としていました。私の信仰は脅かされはしませんでしたが、私の公のアイデンティティーはとても脅かされました。
それらのパンフレットは自ら認めるアンチモルモンによって書かれていました。道理の分かる善良な志を持った人たちは、そのような恨みに満ちた読み物を避けますし、そのような見え透いた嘘の対象になっている被害者をかわいそうにさえ思います。しかし、その社会の一員から出た、同社会に対する攻撃はどうでしょう?
ルシューディに話は戻ります。数えきれない程の西洋の小説家達が、イスラム教徒の反響を殆ど、 又は全く起こす事なく、 イスラムについて批判的、あるいは下品な方法で書いているのはご存知の事でしょう。イスラム教徒はそのような記事に対して憤慨したり、間違いを証明しようとしたりする事はあるかもしれませんが、部外者によってその様な批判的な話が書かれている限り、そのイスラム小説に特別脅迫する様な事はありませんし、アンチイスラムであればある程その本の信用性は薄れます。
しかし、 ルシューディは部外者ではありませんでした。 ルシューディは信仰を失い、西洋に住んでいるかもしれませんが、イスラム教徒にとって、それは関係のない事です。彼は、イスラム社会の一員としてそれを書いたのです。彼は全部の押すべきつぼを知っていました。侮辱の仕方を全て知った上で、それらを使ったのです。
王国の敵?
モルモンのよく似た話を探すのに、そんなに遠くを探す必要はありません。 From Housewife to Haretic 主婦から異端者へ の中の、教会裁判での鍵になる部分からソニア・ジョンソン自身の言葉を引用したいと思います。
これは、ビデオテープ[モンタナ州カリスペルワードのNOW会員である方々へのスピーチ]の写しからの直接引用です。「モルモン教会の指導者達はユタに孤立しています。このアンチERA活動を率いている人々は少し罰を味わう必要があります。そして、私達が出来る事の一つとして、教会本部に手紙を書くか電話をし、『モルモンが自分の平等な市民権に反対する行動をしている事に大変憤慨しており、あなたのところの宣教師が家に来ても、絶対入れてやらない』と言うことができます。」(1981年 Doubleday ダブルデー 332ページ)
ジョンソンは身内として、教会がどのような圧力を感じるかをよく知っていました。そして、教会員でありながら、NOW会員にLDSの宣教師に対するボイコットを奨励したので、彼女は部外者よりも、遥かに権力があったのです。モルモン自身がこのような勧めをしているのに、どうしてこれがアンチモルモンと言えるでしょうか?しかし、ジョンソンがこの声明を発表した瞬間、彼女は教会に対する忠誠心よりも、他に対する忠誠心の方が高いと発表した事になります。LDSの宣教活動よりもモルモン外の事に優先順位を置く様な人は、既にもうモルモンではありません。ジョンソンの破門は形式上のものであって、彼女は既に去って行った人でした。殆どの聖徒はこの事を分かっていました。彼女は既に塀の外の人だったのです。
しかし、ジョンソンはそのようにはとらえていませんでした。実際彼女は、自分の非教会員であるNOWの会員にした勧めは、モルモンとして、完全に妥当な事だったと主張しています。
「あれは、純粋で、極めて単純な政治的嘆願運動ですよ。」私は検察側判事と彼の一団と共に、無駄な主張をしました。「嘆願は政策作りです、つまり、あなたは私の欲しいものを持っている、そして、私はあなたの欲しいものを持っている。それじゃ、とり引きをしましょう。教会は女性に教会に加わってもらいたい。女性は教会にERAを明け渡してもらいたい。ですから、女性は『もしあなたが私の言う事を聞くのなら、私もあなたの言う事を聞きましょう。』これはまさしく政略です。」(From Housewife to Heretic 主婦から異端者へ ジョンソン 332−33ページより)
ここにジョンソンの背教の根源があります。ここに彼女を教会の外に追いやった姿勢があります。彼女は啓示には交渉の余地があると信じていたのです。
殆どのモルモンは啓示は反応するものである事を簡単に受け入れる事が出来ます。実際その通りで、啓示は必要な時にやってきます。教義と誓約の中の殆どの啓示が、願いや質問又は飢饉の応答として与えられました。殆どのモルモンは、啓示は万人に通じるものではないという考えを受け入れています。つまり、ビショップ、ステーキ部長、あるいは教会幹部に至るまで、彼らの判断や姿勢は神からの文字通りの言葉ではなく、彼らの最高の判断であるという事です。そして、我々の殆どが、頭に入ってくる考えのすべてが神から来ているという様な事を言う人がいるならば、疑わしく思います。
しかし、モルモンが受け入れられないのは、啓示が、協定や妥協、圧力団体との交渉により与えられるという考えです。ソニア・ジョンソンは教会に彼女のプログラムに協調する様に強制しようと威圧を試みたのです。同じ様な事が一夫多妻制度のあった時代に、政府が同じたぐいの事をしました。しかし、少なくとも、LDSを反一夫多妻法に従うよう強制しようとしていた役員達は、自分が教会員であるふりはしませんでした。
ジョンソンの異端信仰の発端は、啓示の原理と、主の教会を治める為に召された、生きる予言者、先見者そして啓示を受ける者への侮りから来ています。同類の侮る気持ち、祈りを通してのみ行われなければならない事を、兄弟達に圧力をかけることによって成し遂げるよう駆り立てる気持ちは今も私達の中にあります。
教会の改善
特に教会内から来る、教義や主義に対する公の批判は、教義や主義を変えるのに最も効果のない方法です。そのような批評が達成する事と言えば、主は予言者を導く為に啓示を与えるという事を証明し、そして、その事実は、このような人たちが、神が生きる予言者に語られるというLDSの信仰の基本的な点に敵対する事を表しています。
覚えておいていただきたいのは、必ずしも、これらの批判を構成する彼らの考えが、信仰の敵になっているのではなく、むしろ、教会の指導者達が政治家達と同様に、交渉可能な存在であると思っている事です。それは、一瞬にして、教会員のそのような批判に対する激怒をあおぎ、教会指導者に対しては瞬時に効果を失います。Dialog ダイヤローグや Sunston サンストーン側の記者達のそういった態度こそが、それらの存在を知っているモルモンの信者殆どにとって、これらの雑誌が信仰の敵であるように思われる原因であり、このような雑誌の記者の多くは、実際信者社会の会員ではなく、何人かの記者は本当に敵だからです。彼らはとにかく啓示について信じていません。そして、もし、啓示を信じないならば、文化的モルモン以外にモルモンでいられる方法はありません。
そのような批判は、ルシューディの発言が多くのイスラム教信者の耳に聞こえた様に、多くのモルモン教信者の耳にも同じ様に聞こえます。つまり、そのような批判は、聖徒のアイデンティティーの、社会の、世界視野の中心を貫き、そして、ペース長老がおっしゃった様に、沢山の非教会員や一部の教会員が、 予言者、先見者そして示顕を受ける者に対する信仰や敬意がまったくないままにして、 末日聖徒であることが出来ると信じてしまうので、そういった人たちが、教会で最も危険な物語を話す人(ストーリーテラー)なのです。
影響の可能性
それでは、教会員には教会に影響を及ぼす事は出来ないのでしょうか?考えは上から下へしか流れないのでしょうか? もちろんそうではありません。教会内の政治方針を知る人なら誰でも、教義や主義に関する考えは、両方通行である事を知っています。最高幹部が受ける啓示は、往々にして、ステーキやワード、支部、もしくは謙遜な一聖徒の心と頭の中で試みられ、推薦された事に対する神様からの承認です。殆どの兄弟達は、遠のくどころか、声を発し、情熱的で、親密な聞き手で、いつかは発せられた声の全てを聞き届けます。そして、この教え、発見、改善の偉大なネットワークの一員になりたいと望む人は、誰でもそうなれます。
それはどのようにしてなされるのでしょうか?いたって簡単です。神の王国には、以下の方法をおいて、他に何の力や影響も維持できないし、されるべきではありません。
説得 公の究極点、もしくは脅迫、「交渉」ではなく、むしろ、他の人が受け入れてくれる事を望みながら、新しい考えを私的に提供します。
長く耐え忍ぶ 自分の考えが初めから受け入れられなかったからといってあきらめない。人は変わるものです。そして、時が経つに連れ、初め聞いたときは驚かされた考えも、いつしか良い考えの様に思えてくるものです。
穏やかさ 影響を及ぼしたいと思っている人々に対して、やかましさ、怒り、または嘲りを持って接さない。
従順さ 自分の考えが受け入れられなくても、常に進んで従う心がある。
偽らない愛 同胞である聖徒を助け、支持するふりをするのではなく、実際に彼らを愛し、彼らの幸福を願い、彼らの良き意図を信じる。
親切 決して自分の言葉を人を傷つける為、または、自分の受けた痛みの復習の為に用いない。
純粋な知識 自分の「良い考え」や、この世の教えを瞬間的に信じてしまうのではなく、自分が他人に教える前に聖霊の承認を得る。
我々のうち、数少ない人が他人を戒める召しを受け、それよりも更に数少ない人たちがそうする様にという聖霊の導きを受けます。しかし、時々、私達の考えは他の人にとっては非難に聞こえる事もあるので、私達が敵と見なされない為にも、以前にもまして愛を示さなければなりません。
聖徒は敵の言う事には耳を貸しません。それはもっともな事です。しかし、忠誠を証明し、聖徒を信じる人たちには耳を傾けてくれます。批判の言葉を決して漏らさないならば、あなたは教会において、もっと影響力を持てます。批判を言う代わりに、福音の信仰と教会への責任を確証する様な設定の中で、あなたの価値を明確に教えなさい。もし、聖徒、特に教会指導者達は、あなたの「信仰が死の縄目よりも長い」事を知るとき、あなたが「信仰の家への慈愛」から話していることを信じる様になるでしょう。そうすれば、あなたに対する信用は強まり、教会でのあなたの正しい影響は増すでしょう。
より高い忠義
この人は何というへなちょこなんだ、何て弱いのだろう。真実を伝えるという義務感はないのだろうか? と思われている方がいらっしゃるのが想像できます。「真実を述べる」という事は、今日アメリカにおいて大変過大評価されています。これは、残酷な言葉や制圧の言い訳としてよく使われています。「お前はあの舞台で一番才能のない人間だった。本当に見苦しかったよ。」とか、「昔からお前は馬鹿だと思っていたが、これほどまでに馬鹿だったとは、さすがの私もびっくりしたよ。」とか、「お前は救いようもなく不細工なんだから、いい加減、どんなに化粧をしてもどうにもならないってことに気づけよ。」というような事を子供に言う親に、徳を見る人がどれだけいるでしょうか。それは真実かもしれません。しかし、それによって深く傷つく人に、そのような事を言うのは、徳高い事ではありません。崇高な道は、慎重に沈黙を守ったまま、子供達がそれぞれの短所を乗り越え、避けて、又はそのような短所と共に生きて行ける様穏やかに教える事です。
私達は良い親が子供を愛する様に教会を愛するべきでしょうか?彼らがいずれ大きな泉のごとき知恵から私達に教えてくれる日を夢見ながら、自分達の限られた知恵から、穏やかに、注意深く教えるべきでしょうか?そして、もし子供の様に、私達が勧める事を断固としてに拒むなら、教会への任務を揺るぎなく耐え忍び押し進めるべきではないでしょうか?サンストーンやダイヤローグを読んで憤慨してしまうのではなく、逆に、そのような雑誌のページを開けた末日聖徒はそこから何かを学ぶべきなのではないでしょうか?彼らの重荷を背負い助け合うと誓った、遥かに重要な真実のうちに、彼らの信頼を得る為に、ある真実について沈黙を守る事は価値のある事なのではないでしょうか?
もしサンストーンやダイヤローグが信者社会を離れ、今はその社会をけなす人の集まるフォーラムなら、罪を犯してしまい、彼らの弱点を甘んじてみのがさない教会に腹を立てている人たちのフォーラムなら、もしくは、異端宗教を愛し、それに改宗したいと願っている人たちのフォーラムならば、どうして サンストーンやダイヤローグは、モルモンの考えを載せるジャーナルとして、モルモンにまじめにとってほしいと願うでしょうか? このような人たちは自分たち独自の為の雑誌を作るべきです。しかし、 サンストーンやダイヤローグがまさにその雑誌になりたければ、教会で信用のおける地位にいる人がそれに力を貸さないつもりでいても、それについて文句を言うべきではありません。
ということは、 私はサンストーンやダイヤローグはCorrelation Reviewをクリアするものだけを載せれば良いと思っているという事でしょうか?もちろん違います。公の出版物と異端宗教の間にはかなり広い範囲に渡る、まじめな推測と熱のこもった討論の余地があります。そのような雑誌の中では、沢山の、いえ、多分殆どの記事はこの範囲に入ると思います。
更に、もし サンストーンやダイヤローグの記者が、まさしく私が勧めた通りに話したとしても、階級の内外に関わらず、このような出版物を拒否したり、反対したり、又は攻撃する聖徒が出てくると思います。忠実な聖徒による、悪気のない、気を配った発言でも誤解される事だってあります。そして、攻撃的な読み方を生き残れる読み物なんてありません。モルモンの左翼からモルモンの右翼に至るまで、私自身も同じ経験があります。それは、他の沢山の人も同じだと思います。
たとえば、私の小説Saints 聖徒は非教会員読者の目から見た初期のモルモニズムの印象を、正確に、また前向きに書こうと努力したものです。 小説の中の何処にもジョセフ・スミスが予言者であったという事を支持するものがないだけでなく、非教会員の読者が、彼は事実予言者であった事を信じなくてはならない前提がない事も、 私にとって大変重要な事でした。私は、信者達の人生に対する非信者の立場に立った理解を与える為に、自分の信仰と非教会員読者の信じない心との間の狭い道を注意して歩きました。モルモンの読者には、彼らの先祖の経験を出来る限りリアルにそして力強く提供したかったのです。
何千人という読者を得ましたが、その一部の人たちはそれを読む事によってひどく気分を害された事は承知しております。誠にそれは残念な事で、出来る事ならその憤慨を取り除いてあげられたらと思います。私は自分が芸術家だから教会のメンバーシップの責任から逃れられるとは思っていません。つまり、私は教会よりも芸術の方に高い忠誠心はありません。全くそれは反対です。自分の最高の忠誠心が神の王国にない限り、良い芸術家になれる可能性はありません。精錬された悪儀のある芸術は、より弊害をもたらし、そんなにうまくはないけれども善良な芸術は前者よりも好ましいものです。一番良いのは、大変上手に作られた善良な芸術で、それが私の目指すところです。
モルモンの読者達が私の小説を公平に読まれ、私がその目標を達成していないと思われた場合、私達が皆彼らの未熟さを許すことを期待されている様に、彼らも私の個人的な未熟さを許してくれ、成長する事を信じてくださる事を願います。どっち付かずの主張以上の事を言うとき、誰かを攻撃してしまう事を避ける事は出来ません。それは 良い意図に反して、サンストーンやダイヤローグにもあり得る事です。教会幹部にも頻繁に起こってしまいます。誰の言葉や行動であれ、誤解される可能性はあります。無知や不注意によって、誰でも故意にではなく、傷つけてしまう可能性はあります。
幸いにも、モルモンは、それは地獄への道ではなく、良い意図でしかれた天国への道だと信じています。私達は意図的でない危害をお互いに許しあうのですから。
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