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家族でアート
エンザイン 1977年7月号より
7歳の頃の私はいつも絵を描いていました。自動車、電車、帆船・・・。描き終えた作品は、時々はそれが実際何を描いたかわかるほどのできばえの時もありました。
キッチンのテーブルで、古い1955年製のビュイックの後部座席で、または雄雄しくも聖餐会で静かにするために硬い長椅子のうえで、私は何時間も絵を描いたものでした。
いいえ、大きくなったら絵描きになるつもりではありませんでした。当時の私にとって、描くことへの愛情はそのとき描いている対象外、まったく何の目的もありませんでした。ただ、描くことが面白かったんです。
子供達が何かを創造するときに感じる、その「面白い」という感触は、両親にとって子供達に何かを動機付けたり、教えたり、学んだり、理解することを教えるのに最高の道具です。彼らから自然にもっているクリエイティブなアクティビティーを励めることや、時に応じてその様な活動を方向付けてやることで、両親は子供たちが、大切な原則とよい人徳を身につけることを助けることができます-芸術を通して、実際のところ、子供たちはそれを全部自分で自分に教えることができるのです!
子供たちは成人した芸術家がするすべてのことをします。 子供たちはプロのアーチストほど洗練されてはいませんが、プロ顔負けの情熱を持っています。 子供たちは独自の歌詞と音楽を作りそれを歌います。バレエのつま先立ちをするほどのスタミナはないにしても、人に見られながら、体を動かしてダンスすることが大好きです。彼らはめちゃくちゃに見える丸や点や線を描いて、お母さんとお父さんの絵だといいます・・ただ大人たちだけがわからないだけなのです。彼らは何時間でも互いに演じあったりします。砂は城壁に、土はミニカー用の高速道路に、芝生は巨大な昆虫が葉の裏にひそみ、徘徊る森に変身します。
十代の芸術家はたいてい彼らの両親よりも優れています。今までに作られた優れたロードショウの多くが、著作から演出、演技、キャスト、クルーにいたるまで、すべて十代の若者によって作られています。思春期は子供たちが本気で芸術的創作に力を入れ始める時期で、描く、書く、踊る、歌う、または演じるという動作は個人のアイデンティティーを探すことに大変関係しています。お宅の高校一年生が学校から持って帰る自作の詩は、シェークスピアとは肩を並べないかも知れませんが、それは自分を正直に表現しようとした努力の賜物です。そして、そのような詩のできばえは、あなたの予想を上回るものかも知れません。天才的アーチストは、その才能を若い頃から現し始めます。歳に関係なく、芸術は私たちの中に存在します。そして、他の人々とコミュニケート(または他の人々を理解)するにおいて、自分に一番あった手段がその中に存在することを発見するのです。ブロックで遊ぶのが好きな子供達のすべてが将来建築家になるとは限りません。しかし、子供たちが芸術に没頭するということは、時に、成人後の長期にわたる幸福を考えるとき、単なる将来の職業選択よりもはるかに重要な意味を持つことが少なくありません。
私たちが覚えておかなくてはならないのは、子供たちは自分たちがしている活動を子供っぽいと思ってはいないし、思春期の子供たちは、自分たちを大人だと思っている、つまり、大人と同じくらい、彼らは自分たちの芸術に精魂を込めているという事です。
この世の柵が肩に重くのしかかっている私たち大人は、子供たちが自分達の関心ごとが(大人のそれと比べて)些細なことである、ということに気づいていないと言う事を、いたって忘れがちです。ちょっと想像してみてください・・・成人した大人が、仕事で年間一億円のクライアントとの商談を成立させ、意気揚々と帰宅したとしましょう。その時、もし妻が頭をなぜながら「まあ、良かったわねー なんてかわいいおりこうさんなのかしら」なんてあしらったら彼はどんなリアクションをするでしょう?
子供の世界に入っていくためには、子供の年齢に関係なく、彼らの芸術を真剣に受け止めてやらなければなりません。彼らの世界を広げてやるために、創造の場を設けてやり、彼らが創造するものの価値がみとめられていると感じさせてやることが必要です。そして、その過程において、彼らのその真剣さをうまく生かして、正義と真実を愛する心を根付かせ、彼らが大人になってもその心が消えないように導いてやるのです。
人間は聞いたことや見たことより、実際にやってみたことのほうをはるかによく覚えています。クリスマス・ストーリーの本を父親が読んでくれるのを聞くのは楽しいものです、しかし、小さなロジャーが羊飼い、12歳のトッドがヨセフで、14歳のアンジーがマリアになり、生まれたばかりの弟を、イエス・キリストと見立てて抱っこするとき、その物語は彼らの脳に決して消させることのない記憶として刻み込まれます。
壁にデコレーションをしたり、リビングルームでカスター総督とインディアンの最後の戦いのシーンを一億回も繰り返す小さなアーチスト達は、両親のちょっとした導きにより、夢にも思わなかったような方法で彼ら自身を教育することができます。そして、思春期の子供たちは、両親の再々の励ましによって、今まで自分の中に存在するとは思ってもみなかったような、クリエイティブなエネルギーの発散の仕方を見出すでしょう―そしてそれは後に彼らが自分の家族を豊かにするために使うことができます。彼らの芸術性を真剣に受け止めてください。そうすることによって、彼らは大人になって家族を強め、親密にする絆を作り上げていくことができます。
以降はアイデアの紹介です。
演劇:子供は生まれつきの役者、演劇作家、演出家です。ドメスティックコメディーは、人形の家の中やおもちゃの台所で演じられています。裏庭でインディアンやカウボーイが死ぬたびに、高度な演技が行われています。
そして、もし両親が子供たちに主な役割を演じさせることができるなら、家庭での演劇は福音をよみがえらせることができます。
聖書物語の中に演じることのできないものはほとんどありません。それは、たとえば家庭の夕べでお父さんとお母さんがモーゼが紅海を分けるところをお話した後に始めることができます。
お話が終わった後、「モーゼになりたい人。」とお母さんが聞きます。「私」と3-4人のかわいい声がします。
お母さんは一人選びます。―必ずしも大きい子でなくても、また、男の子でなくてもいいのです。多分一番やりたそうな子が選ばれるべきでしょう。
モーゼの役にはローブと杖がいるので、役に選ばれた子供は、寝室へそれに使えそうなものを取りに送られます。その間に、お父さんは床に寝転んで、手足を中に浮かせて波のように動かし始めます。
「お父さんは紅海だそー。」と低い声で言います。子供たちが笑うとお父さんは近くにいる子供の足をくすぐってこう言います 「気をつけないと危ないぞー」
「イスラエルの子供たちになりたい人、それからエジプト人になりたい人。」数分もすると、飄々とするイスラエル人の後ろに小さなエジプトの軍隊が集められます。お母さんは立ち上がり、「お母さんは火の柱ですよ。」とみんなに言います。そこへモーゼがお父さんのバスローブと釣竿を持って帰ってきて(お父さんはすばやく釣針がついていないかチェックします)、そして物語は始まります。
お母さんの合図で、イスラエルの子供たちはエジプト軍が迫ってくるのを見ます(実際彼らはかなり勇ましくみえます)が、主は火柱を送って彼らを助けます。モーゼが杖を掲げるとお父さんの手と足は二手に分かれ、乾いた海底―つまりお父さんのお腹―が現れます。お父さんが小さな足に踏まれて唸る中、イスラエルの子供たちは抜き足差し足で向こう岸へと渡ります。モーゼが杖を掲げたまま海を渡り終えると、火柱は横へと動き、今度はエジプト軍が渡り始めます。
ところが、エジプト軍が紅海へたどり着き、モーゼが杖を下ろすなり、エジプト軍はお父さん(紅海)の手足に絡まります。(多分、少なくともエジプト人の内一人は向こう岸へ渡ってしまうと思うので、その時は、お母さんが実際はそうならなかったことを説明したら、その物語はもう永遠に忘れられることはないでしょう)
子供が大きくなるにつれて、物語や演技はもっと複雑になっても良いでしょう。レーマンとレムエルはむっつりしていて、頼りなく、ミズリー州の監獄見張番を譴責するジョセフ・スミスは、火のごとく憤慨し、ルツは愛情深く、ナオミは義理の娘を里へ返そうとする時、とてもやさしくいのです。つまり、面白いだけではなく、それ以外の感情も演技に使われるようになります。
十代の子供たちは紙に書かれた原稿があるほうを好みます―つまり、彼らに書かせればいいのです! 演劇をする前の週の家庭の夕べでは、子供たちに自分たちが書いた、サウルがダビデに言うセリフを暗記させてもいいでしょう。原稿を書くのも、演じるのも、どちらも面白いと同時にこの上ない学習の機会となるでしょう。もし、暗記が大変なら、原稿を読ませてもかまいません。大切なのは分かち合い、学ぶことです。
聖典だけが演劇の素材ではありません。お宅では兄弟げんかが頻繁に起こりますか?お宅の十代の子供の一人に兄弟げんかが耐えない家族の劇を書かせてみてはいかがでしょう? そして、もし何か特別な家族の催しがあれば、それにちなんでその劇を演じさせてみればいかがでしょう?(特別な催しとは、たとえば国立公園への旅行、伝道へ出る息子の送別、または病気の子供が精霊の賜によって癒されたお祝いなど、様々です)
もし、子供達の中に誰も書くことを得意とする子がいなくても、あなたの十代のお子さんができる演劇は、たくさんあります。「わが命つきるとも」 や「アンネの日記」など、すばらしい近代の演劇を家族で役を決めて朗読することもできます。お宅にアカデミック賞をもらえるような役者肌のお子さんがいなくても、劇に出てくるすばらしい人物や、お子さんが演劇をする過程において経験する葛藤は、あなたがセリフを読み、役を演じてしまうより、はるかに意味があります。
また、演劇は何も書かなくてもすることができます。即興のロールプレイでも、たくさんのことが学べます。課題や問題を決めて、とにかく演じさせてみるのです。あなたの十代の子供二人に両親の役を演じさせ、あなたたちが彼らの役を演じるのはどうでしょうか? あなた達が彼らの目にどのように映っているか―また彼らがあなた達の眼にどのように映っているか―知る最高の機会ではありませんか。
時にはセット、衣装、照明、観客にいたるまで、全ての装飾をそろえて家族演劇をしてみるのも良いでしょう。毎年恒例の家族会で、家族の歴史についてのパジェントをするのも良いでしょうし、聖書物語を演じあうのも良いでしょう。
演劇は観客がいないと意味がないという法律はどこにもありません。私に強烈な印象を残したすばらしい演劇の体験のひとつは、観客がないときに経験したものです。私と弟はコミュニティーの演劇のリハーサルをしていました。私は彼の父親役を演じていたのですが、私の演じていた人物が、弟をひどく傷つけるようなことをする、とてもエモーショナルな場面に差し掛かったときでした。涙が弟の目ににじんだ瞬間、劇の上での事なのですが、それでも、自分が弟を苦しめたという事実が私の心をに言いようのない悲しみを満たし、私は一瞬、劇の外に踏み出して、ラッセルを自分の弟そのものとして見ていました-自分の人生の中で最も大切な人の一人として-。そして、私は自分自身よりも、遥かに自分の家族を愛していることを、毎日の平凡な家庭生活の中で、気づかずにいたことに気づいたのでした。
観客は必要ありませんでした。私と弟で劇のセリフを読む、ただそれだけでしたが、それが、劇の一シーンと登場人物が、私たち二人を、日常を超えた、もっと深い部分で繋がらせてくれました。あの瞬間は、大勢の観客の前で演じたときに感じた満足感さえも足元にも及ばないすばらしい体験でした。
音楽 その昔、賛美歌は、数少ない良く知られたメロディーにのせて歌われていました。末日生徒の賛美歌も、例に漏れず、古くから知られているメロディーに合わせて歌詞がかかれました。子供たちがすでに知っているメロディーに合わせて歌を作らない手はありません。もっといいのは、大きい子供たちや十代の子供たちに自家製の歌詞を作らせるのです。また、たとえば、来週の家庭の夕べで話題にしたいトピックがあるとします。-お宅の十代の子供の一人に賛美歌を渡して、そのトピックを伝えます。そして、次の週、家族全員でその子供が選んだ讃美歌を習うこともできます。
そういった機会は家庭の夕べだけではありません。日曜日の集会の前後にピアノ(オルガン、ハープ、ギター、リコーダー)の周りに集まって、みんなの好きな歌を歌うのはどうでしょう。
母親の多くは聞いたこともないメロディーの即席の歌を作ります。お母さんが歌うとき、なぜか、それまで心に満ちていた怒りが消えてゆきます。「~おもちゃを床に置いたままにしてると~かわいい子供たちよ~今夜のご飯はぬきでしゅよ~」それは、脅しというよりも面白いことに変わってしまいますが、いいたい事はきちんと伝わります。そして、音楽はその瞬間的な喜びから溢れ出ます。「~お母さんは子供たちみんながとても好きよ~特にお母さんがお料理しているときに笑顔を見せてくれる子がね~」とお母さんが5歳の子供に歌います。その子はそれを生涯忘れるでしょうか?
小さな子供たちもすばらしい即興歌手です。「弟のマイケルがとっても好きという歌を歌ってくれる?」と二歳のトリシャに言ったら、「~マイケル大好き・・」すぐに歌が流れてきます-「~おりこうさんの赤ちゃんで、よく泣くけど~とってもナイスで~私はあなたを抱きしめたり、キスしたりするのがだ~い好きよ~」。 そして、キスをして、今度はおやつのグラハムクラッカーの歌が聞こえてきます。もうこれだけで、レッスンは終わり。しかし、彼女は愛情を声にし、内面にある感情を歌にして表現すことを学んだのです。
歌を歌う事はメソッドや、小さな子供、母親たちに限られたことではありません。大変な庭仕事も父親と息子たちがボルガの船頭歌を-「あぁー重たいなーへい!、よー重たいなーほいっ!」- と歌いながらすることで、ずいぶん楽にまた、楽しくも感じるものです。そして、「世は よく働く人求む」、「神のみ業に進みて」、「陽の落ちぬ間に」などはどうでしょうか?
あなただけに語りかける何かが歌の中には存在します。でなければどうして「感謝を神にささげん」や「恐れず来たれ生徒」が末日生徒達の心を硬く繋ぐのでしょうか? もしあなたの家族が、自分たちしか知らないクリスマスキャロルや神殿の歌、大きくなったら伝道に出る歌を作ったならば、それは家族の絆を深くし、生涯忘れられることはないでしょう。
ダンス 私も含めてあまりからだが軟らかくない人たちにとって、ダンスというとなんだか遠いもののように聞こえるでしょう。しかし小さい子供たちの殆どは曲芸師に勝るほど柔らかい体をしています(覚えていますか? あなたが三歳だった頃、体を弓ぞりにして、足で後頭部を触れていた時のことを?)。 そして、ダンスは、彼らにとって息をするごときに自然なものなのです。
ダンスは小さい子供たちがついて行くにはちょっと複雑な物語の流れにもついていくのを助けてくれます。「悲しそうにダンスをして」と小さな子供が言われたとします-「主に従わなかった時、ニーファイ人はこんな風に感じたのよ」。悲しいメロディーの音楽があれがなお良いでしょう。少し経って音楽が変わります。「さあ、ニーファイ人は悔い改めをしました。」と子供たちは言われます。「だから今度は幸せなダンスをしましょう。主の戒めを守ったときのニーファイ人が感じたように!」
しかしながら、ダンスは小さな子供たちに限られたものではありません。もちろん殆どの家は中でダンスをするには狭すぎるでしょう。しかし、夏には裏庭というオプションもあるのです。十代の子供たちには芝生でフォークダンスをするのはどうでしょう。または、思い切って家系の源をたどり、オランダ(イギリス、スコットランド、日本、メキシコ)の伝統的なダンスを教えてくれる人を見つけ、フォークダンスを家族のアクティビティーとするのはどうでしょうか? これは故郷と私たちの繋がりを、さらには、近代の都市に居ながらにして、故郷に生まれた先祖との繋がりをも深めてくれます。
ダンスはゲームにもなります。あなたの曾おじいちゃんは農家に住んでいましたか? 家族のみんなに(年齢にかかわらず)農家でする仕事を考えさせ、言葉を使わないでそれをゼスチャーで表させます。(自意識過剰な十代の子供には、あえて、彼らがダンスをしているという事は言わないほうが良いでしょう) 各自、みんながどんな仕事のジェスチャーをしたかを当てます。そして、みんな一つを選び、一緒にその仕事のジェスチャーをします。そして、みんなが、全ての農作業を体験するまで、輪の中で取り替え引き換え繰り返します。農家ではなくても、ニューイングランドへ、オーストラリアへ、または、ジュットランドからケントへ航海する船中の生活でも、荒野を渡る旅でも、あるいは神殿を建造する生活でも良いでしょう。ゲームに化けて、ダンスはとてもよい教師であるとともに、とても楽しいものです。
ダンスを家族のアクティビティーとして生かしておく事は、近代の大人にありがちな、体で自分を表すということが苦手になってしまう予防にもつながります。もし、あなたの子供たちが体で自分を表現しながら成長すると、自分の手足と自然に付き合うかわりに、どこか硬く、不自然で、自分の体を一時的な道具としてしか扱わない閉鎖的な大人になることは決してないでしょう。
絵画 これは年齢を問わず、どの子供たちも簡単にできる芸術の一つです—これは、自分の落ち着きのない子供が、鉛筆と紙を持って静かにする光景を目の当たりにした事のある親なら、誰でもうなづかれることでしょう。しかし、絵画も他の芸術と同じように、単に子供を落ち着かせると言うことだけでなく、他にもたくさんの効用があります。絵画はゲームになります。例えば、一人が画家になります。「自動車を描きましょう。」と彼が言います。「まず、タイヤを描いてください。」 みんなが描き終わったら、その紙を自分の左にいる人に渡します。すでに4っつのタイヤの描かれた新しい紙に、画家が言う次のものを書き加えます「次に車体を描いてください。」
「窓とドアを描いてください。」
「人を描いてください。」
「風景を描いてください。」
あなたのお子さんが大きくなったとき、自動車の様な物をを描くことは、もう難しいことではないでしょう。そして視覚的なジョークや遊びからくる面白味も生まれます。例えば、画家があるシーンの水を描きなさいといったところ、誰かは台所の流し台に水をためて人が乗ったボートを浮かべたりします。
バリエーションとしては、想像可能な限りの、恐ろしい“怪獣描きコンテスト”をして、一番すごい怪獣を描いた人を優勝と決めたりするのです。
色塗りやペインティングは汚れますが、ずっと残ります。子供がまだ小さくて、作品が“モダン”過ぎて、何かわからないときは、子供が何を描いたのか説明書きを付け加えましょう。そして、時折、冷蔵庫に張ってあるその絵を指して聞いてみてください「天使がマリアにキリストの誕生を伝えた時のお話覚えてる?どんなお話だったかお母さんに教えて。」
お子さんが語る、そのお話は全てがあなたの教えた通りのお話ではないかも知れませんが、それでもお子さんがたくさんのことを覚えているのに驚かれることでしょう。
そして絵の得意な-得意でなくても上手く描ける-思春期のお子さんに、来週の家庭の夕べのレッスンに使うお話のイラストを頼んでみても良いでしょう。そして、そのお話を教えるとき、少なくとも二つの目は、そのイラストに釘付けであること間違いありません。同時に、その兄弟姉妹も、いつもならテキストが使われるところに、自分のお兄さんまたはお姉さんが描いたイラストが使われているのに驚くはずです。あの、ゲツセマネでひざまづくキリストの絵は大人のあなたの目にはとても魅力的に映るかも知れませんが、あなたのお子さんが描くそれは彼の注目を前画より遥かにたくさん集めるでしょう。
ある家族は家族生活の中で上達しようとがんばっていることや、特別なお祝い事を載せた漫画を編集しています。漫画は壁からはずさせると、すぐに家族の歴史に保存されます-つまり、それは永遠に失われることも、忘れられることもないのです。
また、絵画は小さくなくても良いのです。リビングのざら紙は家族の歴史、教会の歴史、聖典、現在の家族の生活-何でも良いのです。そして、伝道、または服役から帰還する子供のために、ガレージのドアに掲げた「ジミーお帰りなさい!」の張り紙もあります。
カリフォルニア州パシフィカ市にすむロイド・ウィルソン家族は装飾にただならぬ力を入れます-祝日の度にそれが起こります。両親は2-3のルールを決めます(そうしないと家がばらばらに壊されないともかぎらないので・・・)。そして、11人の子供たちは、リビングルームそこいらじゅうに装飾を施します。ハロウィーン、クリスマス、感謝祭、冬、春、復活祭、大統領の日、独立記念日、そして7月24日-別に特別な日でなくてもいいではありませんか!リビングは派手に花開き、子供たちの笑顔も同様です。
芸術は大人のためにもあります。去年のクリスマス、私の父親は25年ぶりに真剣に絵を描きました-これは私にとってははじめてみることでした。彼は母がずーっとほしがっていた山、水、空、そして秋の紅葉の描かれた絵を、クリスマスプレゼントとしてあげました。私は、彼女にとってこれほど意味深いプレゼントを見た事がありません。そして、それは母だけでなく、私たち子供たちにとってもとても意味深いことでした-プレゼントの瞬間に涙したのは、母だけではありませんでした。その絵は代々家族の中で受け継がれ、どんなに高価な絵よりも価値のあるものとして扱われると信じています。
建築 家庭の夕べでエルサレムの神殿について教えるのですか? プラスチックのレンガや木のブロックで小型神殿を事前に作ることもできるのですよ。実際やり始めると子供たちにその作業をやめさせる事が容易な事ではないことに気が付くでしょう。また、子供たちは船が浮かぶことを祈りながら何枚の木切れを釘でうちつけることでしょう? あなたが「そのボートはキリストが海を静める前に沈みそうになった舟の様である」と、子供たちの注意を向けさせることで、そのボートは立派な教材になります。
裏庭の掘り起こした土の山は、モロナイがバウンテフル市の周辺に築いた土壁になります。
家族で家を修理する事によって、あなたの家はきれいになります。しかし、十代の子供たちに家の周りのフェンスを直すのを手伝わせるのは、ただ単に家を直すコストを下げるためだけではありません。市販のカーテン、ディッシュタオル、足ふきマット、プラントハンガーは確かに見た目は美しいでしょう。しかし、成長する子供たちが作るそれは、あなたの「家」を子供たちが永遠に記憶に刻み込み、愛する、「家庭」に変えてくれるのです。
ある婚約者同士が、木製の箱に「個人の歴史」のモンタージュを作ったのを見たことがあります。その四角い箱の中には、選挙のバッジや二百年際のメダル、赤ちゃんの時の写真、現在の写真とウエディングドレスに使う布の切れ端等が入っていました。そのカップルはそれを写真にとって、結婚式の招待状に印刷していたのを覚えています。家族全員それぞれの思い出の品を同じような箱に飾ることもできます。-多分、毎年、その年にあった思い出の出来事を現すものを箱に入れて、家族の歴史の一部とすることもできるでしょう。何歳の子供でも、このようなアクティビティーに参加することはできますし、子供のいない方も楽しめることだと思います。他にも家庭でできるクラフトで家族の伝統の一つになるものはたくさんあります。マクラメ、刺繍、タッチング、編み物、鉤針編み、キルティング、織物、そして裁縫、全て記念の品や家宝を作り上げ、後の世代を繋いでいきます。
執筆 子供たちはその両親の読むお話により、本を読むことが好きになります。もちろん絵本は子供たちの想像力を沸き立たせますが、子供たちは両親が語る「オリジナル」のお話の方をもっと好みます。あなたの小さいお子さんと同じ名前の主人公が、自分の身に覚えのあるような、いろんな冒険をするお話は、お子さんの注意をひきつけます。そして、お話の中で主人公が誠実と信仰を学ぶとき、同時に、そのお話を一生懸命聞いている実在人物も、同じレッスンを学びます。
子供たちは、親たちが夢にも思わないようなワイルドなお話を考え出し、お互いに話して聞かせたりします。そして、お話をする側も、聞く側と同じくらい利益を得ます。大きい子が、小さい兄弟を、お話や歌で寝かしつけるとき、とてもすばらしいことが起こります。ベッドタイムに兄弟同士でお話を語り聞かせたり、聞いたりしてつながれた絆は、決して壊れる事はありません。
あなたの4年生のお子さんは学校で俳句を習っていますか?彼に来週の家庭の夕べのために、春を題に俳句を作るようお願いしてみてはいかがでしょう。そして、それをレッスンの導入口にし、そこから主の創造についてのディスカッションへ導いてはいかがでしょうか?そして、4年生の子供だけではなく、おじいちゃんの作ったへぼ詩も、いく年にもわたって笑い話となるでしょう。
昔からある「ストーリーゲーム」は、家庭で語り聞かせを絶やさないための、とてもよい方法です。一人が主人公のヒーローまたはヒロインを危険な状況に置いたところで、ストーリーをストップします。次の人はそのストーリーを引継ぎ、その困難からヒーローまたはヒロインを脱出させ、ストーリーを続けていきます。幽霊のストーリーは怖いですが、このやり方で、数倍も面白いものになりますし、冒険もワイルドであればあるほど、優れたストーリーになります。ストーリーの終わりは、始まりとぜんぜん関係のないところに行くかも知れませんが、そんな事は気にしなくても良いのです。
執筆はあなたの家族の歴史の鍵になります。子供を含めて全員が12歳以上に達した私の家族は思い出の記録を試みています。まず私たちは同じ題のリストを持っています。たとえば「今までに住んだ家」「デルファの子供の頃」「霊的な経験」等です。時間があるときに(と言うより、時間を作って)ほとんど毎日ノートを取り出し、15分から30分くらい、題を選んでそれについて書きます。そして、そのページを破り、題別に作られたフォルダーに入れます。数ヶ月もすると、家族の歴史を作り始めるに十分な資料ができあがります。時間が経つごとに思い出は増えていくので、これは終わることがありません。
他にアイデアとしては、(これはどんな年齢の子供のいる家族にも当てはまるものです)家庭の夕べで「家族の本」を作ると言うものです。まず、家族全員に同じサイズの紙が配られます。それぞれ、本当にあった出来事―もしくは本当にあった出来事に良く似たフィクション-を書きます。例えば、「誰かが私に親切にしてくれた時」、「私が正直でいようとする理由」、「私がジョニーを愛する理由」等です。 小さい子供たちは絵を描いたり、両親にお話を伝えても良いでしょう。そして、それぞれのページは集められ、ボール紙や木製のカバーで本に綴じられ、誰でも好きなときに見ることができるのです。また、その本にイラストをつけたり、本を綴じる作業を家庭の夕べでしても良いでしょう。
大きな子供たちには、聖句、歴史上の出来事、家庭で最近起こったこと、他に何でも良いのですが、題を与えてエッセイを書かせ、家族みんなの前で読ませます。彼らは、誰かに採点されたり、文法を訂正されたりすることなく、ただ、思っていることを言えば良いだけのレポートというのは、案外面白いものだという発見をするかもしれません。
大学へ進学したり、伝道へ行ったり、衛兵に出たり、結婚して引っ越していった家族にファミリーレターを書く事も、執筆のスキルを使う良い手段の一つです。私たちは日記を書くように勧められています-日曜日の30分を個人的な特別な事は自分の中にとどめておいて、大まかな事は家族と分かちあえる、日記を書く時間に捧げてはいかがでしょう?
何よりも、批判的でない家族の輪の中で執筆を練習する事は、子供たちの心に、書くことに対する愛情を育みます。子供たちが練習を通して執筆の技術を磨くことができますし、自分の気持ちを言葉を通して上手く表現できる大人になる助けにもなります。
なぜ、家庭でアート? しない理由はないでしょう? 小さな子供たちにとって芸術はとても自然な事ですし、十代の子供たちは、何もしなくても指先に芸術があるのですから。型にはまった大人に成長する工程で、その芸術は失われてしまうのです。家族が、演劇、音楽、ダンス、絵画、建築、執筆等いろいろな方法によって、自分を表す機会を設けてあげることで、この世界にやって来た時に彼らが持ってきた創造力を保つことを、助けることができるのです。
しかし、もっと大切なのは、芸術は、若い人々にとって、大切な神の原則を、自分で自分に教えることのできる、すばらしい機会なのです。家族でアート・アクティビティーをするとき、家族の伝統が生まれ、それによって、家族が本来持つべき硬い絆が結ばれるのです。殆どの子供は、将来、職業として芸術家を目指す事はないでしょうが、自己主張を育んだバックグラウンドは、彼らを、幸せで、柔軟な、自身に満ちた人間-大人の世界で人生の荒波に耐えることのできる人間-に成人する助けになります。
そして、あなたの子供たちは自分の作った芸術品だけでなく、名匠の作った芸術品を理解し、愛することを学ぶことができます。アートショー、映画、演劇、ダンスのパフォーマンスを見に連れて行くこと、美しい建造物や家を見に行くこと、家族で読む良い書物、また、一人で読むために買い与えた良い書物-これら全ては、子供たちが自分たちでそれらを作り出そうとするとき、その価値は何倍にも膨れ上がります。同時に、名匠たちの優れた作品に触れる機会を与えることで、彼らは優秀の意味を学び、美と醜さの違いを理解するのです。少なくとも、テレビの主題歌と同じくらいの割合で、すばらしいクラシック音楽や、健全な音楽が流れる家庭、テーブルのうえに、リーダーズダイジェストやテレビガイドの隣に上質の書物が置いてあるような家庭は、自分の囲まれて育った良い物、美しい物を愛するテーストと識別力を持った子供を作り上げます。
あなたが親として、そのような芸術の才能または経験に不足していると感じていても、だからと言って、試みることをあきらめてしまってはなりません。あなたのお子さんは、あなたの歌が音程から外れていることや、あなたのお話のプロットが、実はグリム童話から来ていることを知らないのですし、彼らが成長し、いろいろな方面で上達するにおいて、あなたもその過程を楽しみながら、一緒に上達していけるのですから。
家族は殆どの人たちにとって、唯一の、批判的でなく、寛容な観客です。自分をもっと開いて家の中に芸術の場所を設けようではありませんか。結婚しているしていない、若いか年配か、子供が小さいか十代か、にかにかわらず、芸術を通して、愛する家族に、私たちの一部を分け与えることができるのですから。それに値段をつける事はできませんし、他のどんな大量生産ラインもその代わりにはなりません。家族はお互いを必要としています。そして、家庭で行われる芸術-特に福音関連のもの-を通してこそ、お互いを満たすことができるのです。
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